ずぅ~とblogを書けないでいました。
状況的に落ち着いた時間がなかったし、きもち的にも色々あって文章にしにくかったと言うことです。
で、ふっと気づきました。このblogは全世界的に発信しているけれど、あくまでも私個人の日記だと言う事実。
そう思ったら、私のここまでの感情を残しておこうと思い始めました。
義父は、先週火曜、3/8の午後に状態が悪化しました。
仕事中にダンナから電話がかかることなどないので画面上に相方の名前を見た時に覚悟しました。
職場から直接義父の病院へ。着いたのは16時過ぎでした。
義父の状態は、横隔膜下ドレーンから新たな出血が起こったが、処置できないこと。昼前から人工呼吸器を使っても酸素濃度が上がらず肺も機能低下し出したと言うことでした。結果、(これ以上はムリだろう)と言う判断。
私の心のこりは義父が意識を戻し、義母とゆっくり話できなかったことです。
義父は状態が悪かったため、2/14,15あたりに意識を戻しただけでほぼ ※セデーション(※意識レベルを薬剤でさげ、苦痛を感じない状態にすること・鎮静)状態でした。痛みや苦痛を必要以上に与えずに済んだことは父には良かったと思っています。しかし、母は父とほとんど言葉をかわすことのない看病の1ヶ月で、父は帰らぬ人になりました。きっと後悔と淋しさはたくさん残っていると思います。
名古屋に住む義妹を呼びました。17時半の帰宅を待ってぷぃに電話をし、家のこと・そらのことを頼み病院に直接来るように頼みました。今日はぷぃはきちんと頼んだことをしてくれて、病院に18時45分頃に来てくれました。
長男とはなかなか連絡がつかず、心配しましたが19時前に病院に到着しました。家族4人、揃って義父の最後を見守りました。
20時前に義妹が到着。医師が状況を話し、透析を止めることにしました。
義妹を待って延命処置を切りました。相方はつらかっただろうと思います。相方を見て涙を堪えきれなくなりました。
それから約1時間後の21時ちょうどに父は旅立ちました。
仕事だけが生き甲斐で、83歳でも現役で店に立ち続け、入院するその夕方も仕事をしていた父。昭和3年生まれの骨太な生涯でした。けして派手じゃなく、華やかでもなく質素で堅実そのものの父でした。
2/14に1度、半日だけ病棟のHCU室に入ったのですが、その時に長男と会いに行きました。その時はしんどいながらも意識がありました。
長男が希望校に合格できなかったことを報告すると父は、
「何度でもがんばったらエエ。1番大事なのは身体やぞ」と。言葉になりません。
83歳。健康に関しては自己管理を徹底していた父。最後は病気になってしまったけれど、
すばらしい生き様を見せてもらってと思います。
そして、1度目の手術がうまくいき、目覚めた時に「母親が守ってくれた」と言ったそうです。83歳になっても母は偉大なんだと知り、身が引き締まる思いがしました。
十分なことができなかったこと、ごめんなさい。
相方を育ててくださってありがとう。
おつかれさまでした、お父さん。
コメント待ってます♪
お疲れ様でした
みんなよく頑張りました
いつかはお別れを言わなければいけないけど
見守るなかで息を引き取った
いい人生やったねえ
こな看さん
その節は大変ありがとうございました
うれしかったです。
ベストだったとは思っていないし、そうではなかっただろうけれど、最期をみんなで看取れたことは良かったと思っています。
こどもたちにも「生きるということ」を見せてくださったように思っています